手元の画面の中に収まっているのは他人の想像力。車両の窓枠に広がっている私の∞の想像力。
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手元の画面の中に収まっているのは、
他人の想像力。
車両の窓枠に広がっている私の∞の想像力。
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ふっと気がついて思ったのですが。
電車の中、
スマホから顔をあげると。
目の前の多くの人がスマホを使っていて。
残り2割くらいの人が居眠りしてて。
稀に本を読む人か電車の広告を見てる。
“何にもしない”をする人はほとんどいないものです。
たまにいると、逆に目立つくらい。
(でも、みんなスマホ触ってるから気づかれないのですが)
一日の中で”何もしない”をする時間はありますか?
“何もしない”
時間って、考えてみるとすごくないですか?笑
何がすごいって、
すごく無防備で無意識で、
自分のいる空間が安心・安心でないと出来ないこと。
“考え事をする”と間違えられるのですが、それとは全く違くって。
“何もしない=ぼーっとする”は、
無防備、無意識
とは、そこに安全と安心。それこそ信頼がないと出来ない事。
だから、
“何もしない”ができる場所は
自分が信頼できる空間ということ。
そして、”何もしないができる人”は、
自分自信に何かを求めていない人。
良い意味で期待をしてない人。
情報や知識を集めること、
知っている事が多いほど人は優位な存在になる。
けれど、その情報は今やいろんな所から誰でも手に入る。
けど、自分から溢れる想像力や、
気づきは自分の中からしか出てこない。
しかも、頑張って頑張って絞り出すのではなく無意識に溢れてくるものかと。
“何もしない”をする事は、
そのスイッチを切り替える行為だと思うんですよね。
電車に乗るとき、
すぐスマホに手がいってしまうのだけど、
窓の外のはっきりと見えるか見えない場所に目をやると
ぼーーっとする事ができる。
近ければ近いだけ、
頭と考えが一致してしまい、
ぼーっとが出来ないように思います。
(考え事をするとき、目をつむったり、目を脳の方へ向ける人が多いのはそのせい?)
だから、頭からずっと遠いところへ
意識を移すと考える事ができなくなる。
それでも、考えてしまうのは、
遠くをみているようで
遠くはみれていないのだと思います。
“何もしない”
簡単そうで実は奥が深い行為・・・
昔からぼーっとする事は好きでしたが、
学校や部活動や社会での経験を経てせかせかしてばかりで、
そんな事忘れてました。
何もしないをすること。
すごく気持ちが楽に穏やかになる行為だと思います。
#karadasuppin
#ちょっと一息